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Album

 2004
奄美諸島への旅(7〜8月)

・名瀬市にて
・請島にて
・与路島にて
・加計呂麻島にて
・国直にて
・再び名瀬市にて
・旅を終えて

奄美諸島への旅(2004年7〜8月)

名瀬市にて(5)

■湯湾岳

 そして地図には書かれていない道を通って断崖絶壁を望む曽津高崎(そっこうざき)を望む高台に上り、かつてはカツオ漁で栄えた西古見(にしこみ)の集落を周り、久慈からカンツメの碑がある峠を越えて、奄美で最高峰の湯湾岳(ゆわんだけ)に向かう。天候の変わりやすい山中では雨に見舞われたものの、むしろ濡れた葉が光って美しい。そして再び海沿いの道に戻り、名音、国直などを周って名瀬に戻ってきたら午後6時。車の走行距離は164km、9時間にも及ぶツアーになってしまったが、ガイドのMさんは快く運転をしてくれた。


曽津高崎

徳之島にかかる積乱雲

大漁を願うカツオのぼり(西古見集落)

ヒカゲヘゴ(湯湾岳)

湯湾岳山腹
■奄美の歴史

 その車の中で、Mさんから奄美についてたくさんの事を教えてもらった。奄美の歴史は、琉球によって支配された「那覇世」、そして、その後に薩摩によって支配された「大和世」を経て、近代、現代に至る。その中でも奄美の歴史に最も深い爪あとを残したのが薩摩によって支配された「大和世」と呼ばれる時代だ。薩摩藩の財政を維持するために、奄美はサトウキビの栽培が強制され、島民は過酷な重税が課せられた。収穫したサトウキビは蓄えることも、口にすることも許されず、島民はその全てを薩摩藩によって収奪され、年貢を払えないものは「家人(やんちゅ)」と呼ばれる債務奴隷に身を落としていった。不作の年は、島民はソテツの実の毒をさらして食べたらしいが、毒抜きが不完全で亡くなった人も少なくないという。奄美には、こういう過酷な歴史を歩んできた。

■山に囲まれたシマ

 そういう歴史とともに奄美を特徴付けるものとして、その地形がある。奄美の海岸沿いを車で走ると、伊豆半島にも似たリアス式の険しい海岸線が続くのに気づく。起伏がなく平らな島が多い沖縄とは決定的に違う点だ。現在の奄美は舗装された道路が集落を結んでいるが、昔の奄美は、陸路を絶壁に阻まれ、山道を歩く者をハブが脅かした。集落と集落を結ぶものは小さな船が中心で、細々とした交流しか存在しなかった。したがって、集落を単位とした共同体が必然的に強化された。厳しい自然と過酷な薩摩からの支配の中を生き抜いていくためには、集落の中でお互いに助け合っていくしかなかったのだろう。そうした背景から育まれた共同体が「シマ」である。よく私たちは沖縄や奄美の民謡を「島唄」と呼ぶけれど、正確には「シマ唄」と書くのが正しいらしく、同じ題名の唄でも集落(シマ)ごとに違うのは、シマごとに微妙に文化が異なるという理由もあるらしい。

■奄美の寿司

 夜は宿のオススメで、「いかり寿司」に行く。5席程度のカウンターと座敷にテーブルが一つの小さな店だ。大将ひとりで切り盛りするには、この程度の大きさが限界なのかもしれない。先客がひとりいて、どうやら一人旅らしい。話をしていたら、同じ宿に泊まっている人だった。思わぬ偶然に笑いがこみ上げる。さて、この店の大将は奄美生まれ。横浜などで何店舗かの寿司屋を出していたが、その店はすべて弟子に譲り、奄美に戻ったとのこと。大将は話題が豊富で面白く、寿司ネタも奄美の特徴を出そうと工夫を重ねている。南の島の魚は脂ののりが今ひとつで、どうしても北の魚にはかなわない。そこで大将は、ゴーヤの巻き物、豚肉のにぎり、パパイヤの漬物など、奄美ならではの特徴あるネタを編み出した。1,500円の上にぎりでもこれらのネタを堪能できるのだが、単に珍しいだけではなく、もちろん美味い。フリーコースで案内してくれた観光ネットワーク奄美のMさんも加わって、夜の11時半まで今日のツアーのコースを振り返り、奄美についてのいろいろな話をした。実に楽しかった。

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